2018年03月20日

不愉快な国会中継の月曜日、最後に素敵な絵と音楽で癒された!


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映画『しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス』をみた。地味な小作品はシネコンで一日一回のみの公開だが、美しく、いろいろな思いが、心を巡る素敵な映画だった。舞台となるカナダ・ノバスコシア州に住んだことのある友人が勧めてくれたので、私たちの休日、月曜の夜に近くのシネコンに見に行った。夏は避暑地だが冬は厳しい寒さと雪で閉ざされた荒涼な海沿いの小さな村、さらにその村外れの家とは言いがたいキャビンで描かれた彼女の絵。それは、何十回にもわたる四季の移り変わりに織り込むように描かれた持病、家族の喪失、結婚、生き別れの母娘、日常生活、夫婦とその死別といった出来事とそこにまつわる、その時々の感情が短いものでは数日から、長くは何十年のタイムラグののちの記憶を頼って描かれている。そう多くはない色合いとシンプルな筆使いが素朴派と呼ばれる理由だろうが、実はそれらの出来事が起きた時から、その時の感情がそのあと少しづつ変化しながら、木の板に筆が触れる瞬間に昇華して、どこにもない誰にも描けない彼女の絵となって板に定着したものだ。素朴ではあっても、決して単純ではなく、豊かな絵だ。サウンドトラックも素晴らしかった。Cowboy Junkies の Michael Timmins によるもので、Cowboy Junkies の曲 Something more besides you が最後の曲。Junkiesの名前だけは聞いていたけれどスルーしていた。同世代で80年代から活動していたのに聞いてなかった。すごく損した気持ち!もっと損したと思ったのは、8曲目の ''Dear Darling''を歌っているMary Margaret O' Hara を知らなかったこと。当然このアルバムのことも知らなかったこと。彼女も80年代から今まで歌っていたのに!どちらもトロントをベースに活動中。きっとまだ出会っていない "Chicken Skin Music" がたくさんあるんだろうなあ。

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posted by andynaga at 23:59| Comment(0) | 日記より

2018年03月04日

解雇通告

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私のボス、イエスはトランプを支持するアメリカ福音派キリスト教に解雇されてしまったようです。

この文は以下のブログの翻訳です。




親愛なるイエス殿、

アメリカ福音派キリスト教はあなたを解雇いたします。

今日、あなたの職務がもはや我々に必要ではないことをお知らせすることはまことに残念です。
しかし最近の数ヶ月間に、あなたの職務の多くが時代遅れになってしまったという変化が起こっています。

・あなたの勧める「その人の身になって考える」ことはもはや必要ではありません、隣人を自分自身として愛することは、現在の資源と人材をむしろ無駄にすることです。

右の頬を打たれて左の頬を向けることは、大きな収益にならないことが証明されており、少なくとも今後4年間は戦略計画から除外しています。(訳注:今後4年=トランプの任期を指しています)

・我々は、あなたの進めてきた憐れみ、多様性、平等の取り組みに対する資金を大幅に削減し、より有益な恐怖、排除、差別のプログラムに焦点を当てます。

・また、もともとあなたが先頭に立っていた「最も小さい者を愛そう」活動を大幅に削減し、この資金をより支持を得やすい「自己責任・自分のことは自分で」キャンペーンに割り当てました。

・また、あなたが中東で生まれ育ったことは、我々の主要な顧客が不快に感じている問題のある諸団体との関連からいってもマイナスなので、我々はそのイメージから遠ざかる必要を感じています。

ご存じのように、アメリカの人々は近年ますます我々のサービスを求めなくなっており、バイブルベルトとラストベルトの両方で占める市場シェアを取り戻す必要があります。ドナルド・トランプは私たちに最高の機会を与えてくれます。彼のビジョンとあなたのビジョンとは両立しないので、あなたではなく彼のビジョンによってプログラムを改造するのが最善だと感じています。

以上の理由により、我々は新たな一歩を踏み出します。2017年1月20日をもって、あなたの職は廃止されました。
あなたが先導したいくつかのプロジェクトの中で、まだ我々にとって有益な日曜の朝の礼拝のサービスなどは続けますが、今後は、「神が世界を愛された」ことを強調するのではなく、我々がターゲットとする顧客と共にテストしている「アメリカを再び偉大に」キャンペーンに注力します。

我々は、もちろん今も、十字架を目立つように掲げています。なぜなら、それは今でも強力で収益性の高いブランディング・ツールだからです。特にそれと星条旗とTRUMPの名前を組み合わせればさらに効果的です。引き続き当然のことながら、十字架と同様、ブランド力のあるあなたの名前は、私たちの経営においても積極的に用い続ける所存です。

私たちはLGBT、有色人種、女性、非キリスト教徒、など問題のあるコミュニティを効果的に抑制し続けるために、聖書を選択的に使用し続けます。
そして、私たちは引き続き、罪の管理、恐れのレバレッジ、およびダメージ・イニシアチブの遂行のために、祭壇の祈り/罪人の祈り/地獄からの救済 を積極的に紹介します。これらは組織の根幹であり続けるでしょう。

あなたの過去2千年間の誠実な奉仕を大変感謝しており、その貢献に対する感謝の気持ちを表明するために、私たちは、あなたの名を冠して日曜日に1時間ほど集まりますが、それ以上の期待はなさらないで下さい。私たちの新しい上司、トランプ氏の決めゼリフの通り - 「あなたはクビ」です。

私たちは、あなたの将来の努力に幸運を祈っています。そして、おそらく急進的な教会や、社会正義のブランドが依然として重要な世俗的な分野など、他の場所で大きな成功を収めてくれると信じています。

心から神の祝福がありますように
アメリカ福音派キリスト教

posted by andynaga at 23:33| Comment(0) | イエス

2018年03月02日

聖書を振りかざしてLGBTQを罪と言ってはいけない三つの理由

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1)そこに書かれていることは「同性愛」についてではないから

(創世記19章)(コリントの信徒への手紙1 1:9)


 創世記19章、ソドムの滅亡の記事を「同性愛」の罪で滅ぼされた町について書かれているという偏見があります。そこに「男性の群衆が、ロトの客である男性をレイプしようとした」ことが書かれているからです。しかし、この町が滅ぼされたのは、預言者エゼキエルが言っているように「彼女(ソドムのこと)とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。」(エゼキエル16:49, 50) からです。この箇所をもって同性愛を罪というのは、無知であり、こじつけとしか言いようがありません。忌まわしいのはレイプであって同性愛ではありません。


 そもそも聖書の描く時代には「同性愛」という概念はありませんでした。それどころか、「男女間の愛」も怪しいものでした。男尊女卑どころか、女性は人間ではなく「男性の所有物」でしかなかったからです。だから、男性にとって多くの妻を持つことも、老若男女の奴隷を持つことも、その奴隷たちとの性行為も、ロトのように客人の代わりに自分の娘をレイプさせるために差し出すことさえも正しいことだったのです。


 使徒パウロの時代でも同じです。女性はものの数に入ってはいません。コリントの信徒への手紙は、ユダヤ教の背景を持つパウロが、ギリシャ文化の強い影響下にある宣教地コリントの教会に宛てて書かれました。この手紙の1:9にある「悪徳のリスト」に「男娼」「男色」という「同性愛」を連想させる言葉が出てきますが、これらは現代の同性同士の対等な結びつきである「同性愛」とは異質なものです。貧富の差、身分の差に基づく強者(比較的、裕福で高い地位の男性)による男性、特に年少者に対する「買春」や「愛人的」あるいは「奴隷支配的」関係です。繰り返しになりますが、女性でさえその人権が認められていない社会の中に「同性愛」という概念は存在していなかったのです。



2)他人と自分を測るのに別の物差しを用いること(ダブルスタンダード)になるから


「女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。」(レビ記20:13


これも本来、対等な関係である同性愛のカップルの事を指しているのではありません。それでも、この節をもって同性愛を罪と主張する人は、同じ神聖法集(レビ記17−26章)を厳守している人でなければなりません。そうでないならその人自身は“ダブルスタンダードの罪”(レビ記19:35「あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。」)で裁かれることになります。


例えば、その人は

男性が女性を奴隷的に支配し、性行為をする事に賛成しなければなりません(レビ記19:20

レア、ミディアムレアのステーキは食べてはいけません(レビ記19:26

土曜日にはいかなる仕事もせず、聖なる集会に出席しなければなりません(レビ記23:3


自分は神聖法集にしばられることなく生きている(当たり前ですが)のに、なぜ他人を神聖法集に反しているから罪だと責められるのでしょうか?



3)聖書を大切にしているつもりで侮辱することになるから


「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。」(ローマの信徒への手紙 1:26, 27


聖書の中で最も強力な「同性愛=罪」を裏付けるテキストだと考えられています。ゲイだけでなくレズビアンにも言及しているように読めます。この部分はパウロが、神に背を向けた社会の状況を描写しています。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念、陰口、そしり、神への憎しみ、侮蔑、高慢、大言、悪事、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲と共に言及しています。しかし、文脈はそれらの行為が神の裁きを招く罪だと言っているのではなく、神の怒りの結果、社会はこのようですという描写にすぎません。パウロのこの部分の意図は、それらを罪だと指摘することではなく、そのような事をしている人を「裁く人」に対する叱責なのです。


「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」(ローマの信徒への手紙 2:1


このように、「聖書は明らかにこう言っている」と聖書を振りかざし、コンテキストを無視して、その一部分を取り上げ、自分の考えを補強するために用いる人は、聖書に忠実でもなんでもなく、反対に聖書を侮辱している人なのです。彼らはこのやり方で、聖書は女性差別を、人種差別を、宗教差別を支持していると主張して、聖書を貶めています。


BTQ」に関してはどうでしょう? そもそも「BTQ」について聖書は何も語っていません。「LG」についての概念がないのと同様に聖書には「BTQ」の概念がなかった時代に記された聖書を根拠に「BTQ」を裁くことはできません。

posted by andynaga at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | セクシュアリティー